意識高い系の定義。

やたらと自意識だけ高く、他者を見下し、横文字使う人、それでいて大した実績もなければ、具体的な成果もあげてない人。

これだけだったら、ネットを調べれば出てくるのだが、本書の凄いところは、どのようなメカニズムでこの「意識高い系」という人種が誕生するかを解明している点です。

その誕生の根本的な原因を、地元の「土地」と青春時代の「スクールカースト」としています。もう一つ「意識高い系」の対局の存在として「リア充」を挙げいる点です。そしてそこから生み出される絶望的な青春時代の格差にも言及しています。

地元で「リア充」の影に隠れ、中学高校での「スクールカースト」でもいつも真ん中・・・ぱっとしない青春時代ですね。

「意識高い系」は一発逆転を夢見て「地元」というしがらみから上京します。彼ら彼女らの深層心理には、この暗い青春時代というのが横たわっています。それはリア充に対する劣等感です。

つい10年前まで「意識高い系」なんて言葉はなかっですね。その再発見は、間違いなくFacebookやインスタグラムなど、SNSの登場によって可視化されてからです。逆に言うとSNSこそ「意識高い系」が存分の自分の存在を誇示できる空間なのです。

そもそも何で、こんなに意識だけが高いのでしょうか?

それは過剰なまでに「承認欲求」を得たいからです。

承認欲求は人間なら誰にでもありますよ。別に悪いことではないです。問題は承認欲求を、得るため努力するわけでもなく、筆者がいわく、美辞麗句だけ唱え、具体的な策もなく、抽象的な大義で誤魔化し、他者を見下し、卑小の殻に閉じこもることです。

筆者はその態度が気持ち悪いと言っているのです。己の欲望を素直に認めずを隠す気持ち悪さ。わたしも同感です。

この胡散臭いさ正体を解剖すると

「本当はモテたいだけ」、「チャオホヤされたい」。

根は大方そんなところでしょうね。

実績というのは具体的な行動のみによってしか生み出されません。美辞麗句や気の利いた横文字などからは生まれません。それは売り上げであったり、世に出た作品であったり、チャンピオンベルトであったりします。

「具体的な行動」はいつもグロテスクです。血がにじむような努力。そして汗臭く、泥まみれになることを意味します。

なぜ、意識高い系は「抽象的な文句」が好きなのでしょうか?それは正にこのグロテスクな具体的な行動を嫌悪しているからです。この「具体的」というのは逃げてきた過去。つまり「地元」の「リア充」を連想させるからです

どうすればこの「意識高い系」を超越できるのでしょうか?

それは「我々はリア充から圧倒的遅れている。」 この絶望的な真実を認識することです。

どうすれば他人から承認されるのでしょうか?

それは、ただ地道に努力し圧倒的な実績を残す他ないですよ。 本を読め、語彙を増やせ、行動に移せ、そして作品を世に出せ。